高峰秀子(たかみね・ひでこ)さんは昭和を代表するスター女優で昭和の映画界で大活躍された方ですね。
「カルメン故郷に帰る」、「二十四の瞳」、「浮雲」といった作品に出演し、昭和のトップ女優として活躍されてきた高峰秀子さんの晩年についてなど、気になったことを調べてみました。
高峰秀子は晩年何をしていた?
高峰秀子さんは1924年3月27日に北海道函館市で生まれました。5歳の頃に飛び入りで参加したオーディションに合格し、「母」という作品で芸能界デビューしています。
その後、数多くの作品に出演し、昭和を代表する大女優として活躍していきました。
そして、2010年(平成22年)12月28日に肺がんにより86歳で亡くなりました。
1979年(昭和54年)、木下監督の『衝動殺人 息子よ』を最後に女優業を引退しています。その後は、エッセイストをしたり、テレビドラマの脚本を書かれていたりもしたようです。
晩年は、そういった仕事も辞めて、毎日、好きな読書と旦那さんのために料理を作るという生活をされていたようです。穏やかな晩年であり、『今が一番幸せ』ということは話されていたそうです。
派手な生活はしておらず、毎日朝6時に起きて、家事や料理などをして、空いた時間には読書するなどして過ごしていて、特に用事がない限り、決まった時間に同じことをするという感じで規律正しく生活をされていたようです。
高峰秀子さんは人間嫌いと言われていて、晩年にはあまり人との関わりを積極的に持とうとしていなかったようです。女優業も好きでやっていたわけではなかったということで、晩年の穏やかな生活が性にあっていたらしく、それが晩年によく口にしていた『今が一番幸せ』という言葉に集約されていたようです。
また、晩年には、文藝春秋の編集者・ライターである、斎藤明美さんを養女として、自身の胸の内を明かして、関係を深めていたようです。斎藤明美さんが高峰秀子さんの半生について書いた本があり、こちらは非常に評判がいいみたいです。
高峰秀子の遺産がすごかった?
高峰秀子さんは映画監督の松山善三さんと結婚しましたが、子供はいなかったそうです。
遺産については、夫婦で生前に遺言を作成していました。その遺言書によると、「遺産を公的機関に寄贈する」という内容だったようです。そして、香川県小豆島町に寄贈されました。「小豆島は2人が主演女優と助監督として出会った思い出の場所」という理由でこの町が選ばれたそうです。
寄贈されたのは、「自宅の土地、建物の一部のほか、集めていた絵画や骨董品約40点など」とのことです。具体的な金額などについては明らかにされていないようです。
一部の寄贈だったようなので、それ以外の遺産については、養女である斎藤明美さんが受け取ったのではないでしょうか。
金額については不明ですが、昭和を代表するスターですし、かなりの金額だった可能性が高そうですね。
高峰秀子と高峰三枝子との関係は?
高峰秀子さんと同じ時代に女優として活躍していた高峰三枝子さんという方がいます。同じ名字ということで、姉妹と思っている人もいるようですが、血縁関係などはないようです。
高峰秀子というのは芸名であり、旧姓は「平山」ということで名字も違うみたいですね。
お二人とも美人で映画女優ということで、「女の園」や「子供の眼」といった作品で共演しています。雑誌でで対談もしていて、お互いにタメ口で仲良く話されていたようなので、関係は悪くはないみたいです。
高峰秀子のお墓はどこにある?
高峰秀子さんは亡くなったあと、旦那さんと娘さんによってハワイの墓地に納骨されたそうです。
生前、「ハワイは世界で一番美しい島々です」と話されていて、思い出深いところだったということで、ハワイの地を選んだみたいですね。
夫婦でハワイに長期滞在していたりもしていたそうですし、ものすごい思い入れがあるみたいです。ハワイについて夫婦で共著を書かれていますし、特別な思いがあったみたいですね。
高峰秀子さんは女優として華々しい活躍をされていましたが、女優業は好きではなく、人間関係で苦労していたりもして、大変な思いもあったみたいですね。それでも、最良の伴侶を見つけて、晩年は穏やかに幸せなときを過ごしていたということのようです。
苦労もしてきたからこそ、いろいろな思いや考えも持っていて、エッセイストとしても大成されたのかもしれませんね。随筆家として26冊の著作を遺して、どれでも高く評価されているようです。今の時代にも参考になることが多いようなので、こちらの本も参考にしてみてはいかがでしょうか。
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