田中絹代さんは昭和を代表する女優さんで『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞するなどして、国際的な評価も高い女優さんです。
女優だけではなく、映画監督としても活躍し、映画界の多大な功績を残したことから「田中絹代賞」というのも創設されています。
日本の映画界に大きな功績を残してきた田中絹代さんの晩年などについて気になったので調べてみました。
田中絹代の晩年は悲惨だった?
田中絹代さんは、山口県下関市出身で1909年11月29日に誕生して、1977年3月21日に亡くなっています。
田中絹代さんは女優時代は華々しい清純派スターとして活躍されていましたが、晩年はかなり苦労されていたようです。
経済的に苦しく、借金もあって、鎌倉にある小さな家の暗い部屋での闘病生活の末に亡くなってしまったようです。田中絹代さんは脳腫瘍を患っていて、晩年には、箸が使えなくなったり、言葉がでなかったり、トイレにも行けなかったりと介護を受けるような生活をされていたようです。
ベルモンドと田中絹代先生は頷く時にほんの僅かに顎を上げてから頷くので不承不承というのか不敵な感じがして印象深い。 pic.twitter.com/LFSosi6dze
— 増上慢 (@Rkt6Jat) October 11, 2023
心身に変調をきたしていて、人の悪口を凄まじい勢いで話したり、急に怒ったりしていたようですし、人格が昔と変わってしまうような感じだったようです。
昭和の大スターでしたが、晩年は病魔と経済的な苦境に苦しんでいたみたいですね。
死因は脳腫瘍の悪化であり、67歳で亡くなりました。
田中絹代の旦那、子供は?
田中絹代さんは結婚しておらず、独身だったようです。田中絹代さんは10代のころに清水宏監督から求婚されたそうですが、母親の反対もあり結婚はしなかったようです。
その後、反対があったために、清水宏監督とは結婚はしなかったものの、「試験結婚」という、いまでいう同棲生活をすることにしたそうです。しかし、その生活はうまくいかずに、喧嘩が絶えなかったということで、2年ほどで関係を解消しています。
二人の間に子供はいませんでした。
その後、溝口健二監督からの熱烈なアタックがあったりもしたようですが、田中絹代さんにはその気はなく、結婚にはいたらなかったようです。また、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂さんとの熱愛も噂になったりしたようですが、こちらも結婚にはいたらなかったようです。
結果的に、清水宏監督との試験結婚(同棲生活)以外には、結婚はしておらず、独身を貫いていたそうです。「私、映画と結婚しました。」という言葉を残しているそうですし、映画にかける思いが強かったみたいですね。
田中絹代さんには身寄りとなる旦那や子供がいなかったということで、隼信吉さんという方が40年に渡り田中絹代さんの身の回りの世話をされていたそうです。
田中絹代のお墓はどこにある?
田中絹代さんが亡くなったあと、山口県下関市の下関中央霊園に埋葬されたそうです。その後、三回忌に小林正樹によって神奈川県鎌倉市の円覚寺にも分骨されたそうです。
小林正樹さんの父と田中絹代さんが従兄弟の関係だったということで、晩年も付き添っていたそうです。
[円覚寺]3.22. 松嶺院の墓地にて。①往年の大女優田中絹代の墓。鎌倉山に住まいしていた。②選仏場の藁屋根と仏殿。③居士林。④松嶺院墓地の断崖。 pic.twitter.com/CIgBZM9mQ1
— シナモン (@yamkam1020) March 24, 2018
現在西日本を周遊中ですが、山口県の下関で念願の田中絹代ぶんか館に足を運べて感無量😊スタッフの方が懇切丁寧に案内してくださった。館内は撮影禁止ですが、ゆかりの品も多く展示。お墓も下関にあり、血縁者である小林正樹監督と一緒に眠っているそう。https://t.co/H6WIyBGVuS pic.twitter.com/rMxYUey6Z6
— 林瑞絵 (@mizueparis) July 25, 2022
・原節子の引退理由とは?晩年は何をしていた?ビートたけしとの関係とは?